本堂内の石造り厨子の扉に十四菊花章と共に文政11年8月吉日奉納とあり、また境内の石灯籠に寛政8年寄進とあります。よって200年近く前よりの霊験あらたかな霊場であった事がわかります。
郷土史のよれば、小院より下って1キロあまりの所に万隆寺(現在は農家)という寺があり、その奥の院として、修行場として滝の観音堂があると記されています。何分にも古文書の類が紛失しているので伝説のみが残るのみですが、現在お乳水について以下の二説が語り伝えられています。
平家の乳母のお話
800年前。寿永3年の壇ノ浦の合戦で敗れた平家一門の落人の乳母が風師の山を越えてこの谷あいに、乳飲み子を抱えてひっそりと暮らしていた。ところが源氏の追っ手に発見されてしまう。気丈にも懐刀で立ち向かったのだが、やがて力尽き自ら命を絶ってしまったのである。その時苦しい息の中で「わらわの乳房のひとつをかわいい我が姫君に。もうひとつの乳房を、この世のお乳の乏しさに悩む母に捧げましょう。」と念じながら息絶えた。すると不思議なことに息絶えた乳母の傍らの岩からお乳が噴出したという。
その後、村人たちは女人の冥福を祈り観音堂を建立した。お堂の前には岩清水が沸き、お乳の少ない母親がこの岩清水を飲むとお乳の出がよくなった。そこで、この岩清水を「お乳水」と呼ぶようになった。現在も本堂前にはこんこんと湧き出している。
桜姫のお話
時代は江戸時代小笠原藩のころ。殿様にひとりのお姫様があった。名を桜姫という。不幸にも母を失くし継母の元で育てられることとなる。継母は桜姫をひどく嫌い、殿様が参勤交代で江戸に上った留守に家来の命じて、桜姫を駕籠に乗せ平山の山奥に置き去りにさせた。桜姫はここで息絶えてしまった。哀れに思った村人たちは丁寧に葬り、そこに観音堂を建立した。
また、異説には同じく小笠原藩のころ。殿様に双子の姫が生まれた。当時は双子は不吉であると忌み嫌われ、どちらか1人を捨て子にしなければ二人とも育たないと信じられていた。そこで、家来に1人の子をを始末するように命じ、平山の山奥に捨てさせたという話も語り伝えられている。
後に菩提を弔うために小倉藩の家臣や一般信者が春秋の彼岸に参拝する習慣が生まれた。その折には伊川の船着場には、市が立ち時ならぬ賑わいを見せたという。
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